
吊革もどし
吾輩はつりかわである。名前などもちろんない。姿かたちは、ドーナツの真ん中が広い円形の固い輪とイメージしていただいて差し支えない。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。ただ気づくと、多くの同僚とともに電車の座席から見上げたところにぶら下がっていた。はるかエゲレスのチューブと呼ばれる地下鉄には、まんまるの団子状のやからもいるとは聞く。
毎日何千、何万というおびただしい数の人たちに握られている。握り方は人それぞれ、軽く握る人、痛いくらいにギュッと握る人・・・綺麗な手の人、ごつい手のひと、それぞれである。
つかむ場所は、だいたい9割がた、そのドーナツの穴に親指以外の4本の指を前から通して、親指はドーナツの反対側から4本の指にくっつける。
吾輩が毎朝見ていて面白いと思うのは、吾輩を握る人々の握りかたとその人間模様である。たとえば、握りながら思いっきり吾輩に体重をかけてくるひと。吾輩にぶら下がっている人。友達との会話に忙しいが、ずっと吾輩に体重をかけたままである。ちぎれそうで辛い。おそらく別のところに何か気になることがあるのだろうか。依頼心が強いのか、体のどこかに変調をきたしているのか・・・。
はたまた本来握るべき箇所とちがう、輪の外側をつかむ人、吾輩をわしづかみにする人がいる。独占欲が強いのか、握力を鍛えているのか。あるいは、つかむ前に吾輩を数センチぐるりと回して、つかむ場所をずらす人がいる。潔癖症か・・・。アルコールティッシュで一回拭く人もいると同僚から聞いたことがある。吾輩はまだそういう人には出会っていない。
ある時、こんなこともあった。サラリーマンらしい背広を着た男性(Sとしておこう)。人の良さそうな顔つき。彼は吾輩を握った。依頼心が強いでもなく、外側をつかむでもなく、つかむ場所を回すでもなくであった。すると彼のあとに、背の高いいかつい感じの、やはりサラリーマンらしい男性(Xとしておこう。)が乗車してきた。電車はぎゅうぎゅうでかなり混み合っている。Sは吾輩をつかんだまま一歩体を奥に進めた。すると吾輩が慣性の法則に則ってぶら下がっていた場所に吾輩のいない空間が生じた。その空間にXのいかつい顔すなわち頭がすっぽり収まってしまったのだ。XはSと斜向かい・・・。
吾輩を手放せば、吾輩はブランコのように、Xのいかつい顔めがけて勢いよくまっしぐらに突き進み、ジャストミートである。吾輩は固い。鼻にでも当たれば、痛いぞ~。Sの頭のなかは吾輩を離さずに連れて動いたことを後悔している様がありありと見える。電車はたんたんと動いている。ときどき左右に揺られながら、はたしてSは吾輩をどうするのか?吾輩を離すに離せない、平凡な朝に起こったこの大ピンチをどう切り抜けるのか?
1)電車の次の揺れをまって、いかにも不可抗力のように吾輩を離してしらばっくれる。絶対Xの顔に当たる!!
2)ひらすら自分の降りる駅まで、吾輩を握ったまま耐える!辛いぞ~。
3)「すみません、吊革を離します、御顔に当たるかもしれません。お気を付けください」という。でも勇気がいるぞ~。
しがない吊革の吾輩には、このくらいしか浮かばないが、読者の皆さんにもし名案があれば、ぜひ吾輩にお知らせいただきたい。
そんな人間模様を観察しながら、吾輩は今日もぶら下がっているのである・・・。(冒頭の写真はインタネットの記事から。)
今日もお付き合いいただき感謝でござる。
【せたがやしぐさ】事務局ob